末人の物語

性善説は楽をしたいから

人間は楽をしたがる。

これはズボラとか、そういうものではなう脳のリソースが限られてるので、頑張るところと頑張らないところのメリハリをつけているだけ。

情報社会で1番脳のリソースを削減できるのが性善説。

疑うことは負担

とりあえず、相手は嘘を言っていると性悪説で動いている人もたまに見かけるが
余程の馬鹿でない限り、相手の言動を嘘と断定するには、それなりの根拠が必要なことを知っている。

その根拠を探すには、知能的負担も肉体的負担もかかってくる。
負担を背負うくらいなら、相手の言ってることは正しいと信じ。

もし、相手の言っていることが嘘だと分かったとしても、
自分の熟慮が足りなかったためだとは考えずに、自分は騙された被害者だということができる。

楽は気持ちいい

性善説は楽というのと同時に、気持ち良い。

100%信じられるという人がいるとしよう。
その人とのコミュニケーションがどれほど楽で、どれほど気持ちいいものか想像にかたくないでしょう。

疑っていた人が白だとわかった時の爽快感は、変え難いものがある。

賢いと気持ちいいのトレードオフ

相手のことを性悪説でみるべきと言うのは違う。
脳のリソースが激しく消費されるだけでなく、相手をハナから疑ったコミュニケーションはうまくいかない。

疑われているなという感情は、相手にすぐに伝わる。

賢く生きたいなら、相手を信じすぎないこと
気持ちよく生きたいなら、相手を信じること

中庸がよいという当たり前の結論には行き着くが、性善説は、とても素晴らしいことだと持ち上げるものではない。

まとめ

性善説は脳のリソースを節約するために人間がとる生存戦略。

その人が良い人なのか悪い人なのかを測る指標にはならない